東京2020のパラトライアスロンへむけ、再び走り始めた秦由加子。その足元、義足と地面が接するゴムソールが、進化をとげた。手がけたのはブリヂストン。グリップ力と耐摩耗性という二つの性能を強化した最新モデルで、彼女の走りを支える。
秦選手が挑むパラトライアスロンは、スイム0.75km、バイク20km、ラン5km。総距離25.75kmの合計タイムを競うレース。
10代のときに病で右足大腿部から先を失ったものの、2008年に幼少時から続けていた水泳を再開。2012年にトライアスロンに転向し、2014年の世界トライアスロンシリーズ横浜大会でPT2女子優勝、リオデジャネイロ2016パラリンピックでは6位という結果だった。
バイクで引き離し、ランで逃げ切る。完全なレースを目指す
秦選手が東京2020へむけたトレーニングで重視したのが、ソールの耐摩耗性。しかも「グリップ力はそのままに、3~4か月はもつようにしてほしい」というオーダーだった。
スイム、バイク、ラン。最後の逃げ切りとなるランで、装着する器具への不安を払拭し、メンタルもフィジカルも安定した走りを実現させたい。そう願う彼女が求めたのが、グリップ力と耐摩耗性のアップだった。自動車用タイヤでは二律背反する性能だ。
そこで秦選手に寄り添い、ブリヂストン技術センター(東京都小平市)の開発陣たちをまとめあげたのが、同社イノベーション調査研究ユニット小平美帆主任部員。
小平リーダーたちは、秦選手の合宿先であるタイなどへ渡り、計測器でゴムに架かる圧力を計測し、彼女のささいなひとこともすくい取り、器具の存在すら忘れるほどの安定した走りを実現させるべく、ゴムソールの進化を追求した。
開発陣を驚かせた、彼女の接地圧
小平リーダーは、健常者とは違った、彼女の器具に対する不安感を聞き込んでいく。膝上から失った秦選手は、健常者が無意識レベルで行える、膝屈伸による蹴り出しや旋回、悪路での踏み出し調整などが難しい。
「アイススケートリンクの上を歩くときをイメージしてもらえばわかる。健常者は脚の接地面から腰上まで、全身をサスペンションのように使って安定させようとするけど、彼女の場合は大腿部から下が器具。義足がどんなに進化しても、滑るという不安は拭えない」
その不安感から、耐摩耗性とグリップ力を進化させたゴムソールで、解放させたい。小平リーダーは、デザイン企画部の糸井大太氏や、イノベーション推進部の桜井秀之氏らといっしょに開発をすすめていった。
秦選手の義足が地面を蹴るときの接地挙動を解析した結果、ゴムソールにかかる圧力が想像以上のものだった。なんと、トラックやバスと同等の接地圧が、この小さなゴムソールにのしかかっていたという。
パタンデザインを開発する糸井氏、ゴム素材を決めていく桜井氏は、両者とも自動車分野の第一線で活躍するエンジニア。彼女の接地圧は、タイヤ開発のエキスパートも驚くほどの、大きなものだった。
「彼女の不安や希望をどう理解して、どう科学的にアプローチして、それをもとに設計していくか。いまある技術とどうあわせていくか。選手の希望と数値結果をわたしが伝えて、それを翻訳してくれるのが、桜井さんと糸井さん」(小平リーダー)
異色の人材が、パラアスリートを足元から支える
そう語る小平リーダーは、クルマ関連のポジションをほとんど経ていない異色の人材。ブリヂストンに入社後は、知財やマーケティングなどの部門を経て、現在のイノベーション本部にいる。
「ブリヂストンのゴムを秦選手のもとに持っていって、試しに走ってもらったときの思い出が忘れられない。あの出会いが今でも開発の原動力になっている」(小平リーダー)
「出会った当初、小平さんが持ってきたブリヂストンのゴムソールを、義足に簡易的に貼り付けて走ってみたら、その瞬間、なにこれ! すごいグリップ! と。それから、どんな環境や合宿地にも来てくれて、路面や本番の気候、状況を共有してくれる」(秦選手)
すぐにでも外で早く試してみたくて
「地面を踏みしめるとき、健足は、足首と膝で踏ん張れる。ひざのない義足は、足が持って行かれる感じがある。路面状況によっては、コントロールできないときがある。ゴムソールのグリップ力は、健康な人とはまったく違う感覚でとらえている。今回の進化版も、革新的」(秦選手)
彼女の笑う顔を見ながら、小平リーダーは「わたしたちには、義足で走るという感覚が、まだまだ理解できていないかもしれない」ともいう。
わずか20数センチという長さのゴムソールの世界。タイヤメーカーが取り組む、パラトライアスロン選手のゴムソールが、レースを、選手をどう変えるか。秦選手は最後に笑ってこう語った。
「きょうは冷たい雨じゃないですか。もう、このゴムソールを見たら、すぐにでも外で早く試してみたくて。走ってみたくて」