マツダの防府工場、長かった1000万台への道のり
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それも頷ける話で、防府工場の歴史は苦難の連続だったからだ。1982年に第1工場がスタートし、10年後には92年には第2工場が稼働した。生産能力は合計で年間36万台。小飼社長は生産技術部門のエンジニアとして第2工場のプロジェクトに参加した。
しかし、バブルが崩壊。防府工場の生産は減少の一途をたどった。96年には15万台を下回り、その稼働率は4割ほどになってしまった。最新鋭の工場が戦力になるどころが、経営の足を引っ張ってしまったのだ。その結果、メーンバンクの住友銀行(現・三井住友銀行)もマツダの面倒を見切れなくなり、筆頭株主フォードが主導して再建に当たる一因ともなった。
それでもなかなかフル操業に至らず、2002年になってようやく年間36万台を超えた。その間、マツダは防府工場での採算を高めるために、さまざまな生産改革を行った。その改革は今の「モノ造り革新」に生かされ、超円高下で輸出しても利益の出る工場として生まれ変わったわけだ。
「マツダは、1000万台達成をさらなる成長へ向けた通過点と位置づけ、これからもお客様に喜んでいただける魅力ある商品をお届けするために、全社あげて取り組んでいく。そして、日本のモノづくりを世界に広めていく」と小飼社長は話し、防府工場での取り組みを海外工場へ導入していく計画だ。
現在、防府工場は新型アテンザの販売好調で、ほぼフル操業が続き、リーマンショック後に34万台まで落ち込んだ生産台数も今年度は40万台を軽く超える見込みだ。文字通り防府工場の累計生産台数1000万台達成は紆余曲折を経た、長い道のりだった言えよう。
《山田清志》