【池原照雄の単眼複眼】豊田英二氏逝く…自動車産業最大の功績者

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故豊田英二氏
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100歳を迎えたばかりだったのに…

トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の元社長で最高顧問だった豊田英二氏が9月17日に100歳の天寿をまっとうした。戦前の日本の自動車産業の揺籃期から日本車が世界を席巻した1990年代初頭まで、技術者としてまた経営者として第1線に身を置いた。トヨタにとっても日本の自動車産業にとっても最大の功績者だった。

英二氏は1913(大正2)年に、トヨタグループの創始者豊田佐吉の弟である平吉の二男として誕生、今月12日に100歳の誕生日を迎えたばかりだった。同日付の中日新聞には「豊田英二氏100歳に」と、囲み記事が掲載され、「トヨタが今春刊行した『75年史」を担当役員から受け取ると、英二氏は『よくできている』と、満足そうだったという」と、近況が紹介されていた。

1936年に東京帝大工学部を卒業して豊田自動織機製作所(現豊田自動織機)に入社、33年に設置されていた自動車部に配属された。翌37年に従兄でトヨタ創業者の喜一郎がトヨタ自工を設立すると、直ちに転籍し、終戦の年の45年に取締役、50年には常務になり、倒産の危機にも見舞われた戦後の混乱期に喜一郎を支えた。

◆創業者喜一郎の遺志を継いで突っ走る

52年に喜一郎が57歳で早世した後は、「大衆乗用車を国民に」という遺志の実現に向けて突っ走った。国産初の本格乗用車となった『トヨペットクラウン』(55年)やマイカーブームを拓いた『カローラ』(66年)などを技術担当役員として送りだした。トヨタ自工の社長在任は67年から15年間に及び、70年代の排出ガス規制や2度の石油ショック、80年代初頭の日米自動車摩擦など、相次ぐ危機を乗り越え、日本のトップメーカーとしての地位を固めた。72年から80年までは日本自動車工業会の会長も務めた。

82年には米GM(ゼネラルモーターズ)との米国での合弁生産交渉を開始(83年合意、84年生産開始)、日米摩擦の緩和やトヨタの米国本格進出への足場とした。82年に戦後の経営危機時に分離を余儀なくされ、悲願でもあった工・販合併を実現すると、創業者の長男である豊田章一郎氏(現名誉会長)に社長を譲り、会長に退いた。英二氏は合併の日の社内向けメッセージで「本日、トヨタの戦後は終わった」と述べている。合併を機に、トヨタはより体質を強め、世界屈指の有力プレーヤーへと歩を進めて行った。

◆同業者に塩を送ったエピソードも

筆者はこの当時、新聞記者として自動車産業を取材していたが、英二氏の最初の印象は「笑顔が少なく、とっつきにくいおじさん」だった。取材を重ねるうちに、ジョークも披露してくれるようになったが、笑顔の記憶が少ないのは、常に喜一郎氏の悲願を背負ってきたからであろう―齢を重ねて、やっと自分なりに理解できたような気がしていた。

いまや歴史に埋もれたエピソードをひとつ。70年代半ば、排ガス規制が厳しくなっていた時代。エンジンの対策技術に出遅れて窮地に陥っていたメーカーに対し、英二氏は傘下のメーカーを通じて技術供与によるサポートを指示したのだった。同業者にも、とっつきにくい人だったかもしれないが、実は自動車産業に携わる人や会社には「同士」として温かく、強い連帯意識をもっていた人だった。

《池原照雄》

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