自動車産業のモデルをつくったスローン社長
破たん処理を経て再生をめざす米GM(ゼネラルモーターズ)は、フォードモーターとともに自動車産業の事業モデルを構築した立役者だった。日本の自動車メーカーもその経営手法を導入し、発展の礎を築いてきた。地に堕ちながら、巨星は多くの教訓も残した。
「あの本は若い頃から私の『座右の書』でした」。最近、ある自動車メーカーの幹部とGMの先行きについて雑談している時、先方がこんなことを言った。
「あの本」とは、GM中興の祖といわれるアルフレッド・スローン元社長(在任1923 - 37年)の著書「GMとともに」(原題「My Years with General Motors」、ダイヤモンド社、訳・有賀裕子氏)のことだ。
スローン氏は、社長を務めていた部品メーカーが自動車メーカーと合併、さらにその企業がGMに買収されるという経緯でGMに入社し、すぐに頭角を現した。モデルイヤーごとにクルマに改良を加える方式や、ブランドごとの事業部制、さらに金融会社GMAC(1919年設立)による割賦販売の導入など、多大な功績を残している。
◆管理貿易のモラトリアムを生かせず
いずれも日本の主要自動車メーカーが設立される以前のできごとだ。戦前、日本GMの社長を務め、後にトヨタ自動車販売(現トヨタ自動車)の社長として最強の販売体制を築いた神谷正太郎氏は、複数の販売チャンネル制を導入して飛躍の土台とした。その手法は、GM時代に学んだものだった。
スローン氏が第1線を退いた後もGMは拡大を続け、60年代の初めには米国での販売シェアが50%を超える絶頂期を迎えた。だが、70年代に襲った2度の石油ショックを契機に雲行きは変わって行った。小型車の代名詞でもあった日本車と互角に渡り合える製品を創りだすことはできなかった。
日米政府は1981年度から日本車の対米輸出自主規制という管理貿易に入る。13年にもわたるこの保護主義は、米メーカーが小型車を開発するためのモラトリアムでもあったが、その時間を有効に生かすことはしなかった。
◆70年代のGMが残す教訓
強過ぎる労組(=UAW)もGMなど米メーカーの競争力を削ぐ大きな要因となった。医療の面で国民皆保険が導入されていない米国で、いわば政府の代行のような役目を果たしたのは立派だが、途中、「身の丈」に合った厚生制度に、なぜ見直せなかったのだろう。
双方が節度を保った良好な労使関係がいかに大切かという教訓だ。労使関係という点では、労働を単なるコストととらえ、現場のワーカーが自ら「カイゼン」するといった働き方を植え付けることはなかった。
日本車は今世紀初頭から、世界で最大のシェアを握る存在となった。だが、中国やインドでは新興メーカーが台頭している。70年代のGMに日本メーカーを置き換えると、衰退の危機と新勢力の激しい追い上げはすでに始まっていると見ることもできる。