日本自動車殿堂、今年の殿堂殿堂入りは 宮川秀之 氏ら4名---イタリアのカロッツェリアを日本に紹介など

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日本自動車殿堂表彰式
日本自動車殿堂表彰式 全 3 枚 拡大写真

日本自動車殿堂に、イタリアのカロッツェリアを日本に紹介した宮川秀之氏、自動車史考証を先導した高島鎮雄氏、ディーゼルエンジンのハイブリッド化等に尽力した鈴木孝幸氏、日本のレストア活動をけん引した木村治夫氏ら4人が殿堂入りを果たした。

日本自動車殿堂の殿堂者の選定は、自動車社会の構築に貢献した方とともに、先人の業績、顕彰に留めることなく、現代、そして将来に向けた絶え間ない努力を続けている方々も選考対象とされた。さらに、自動車産業や学術はもとより、文化的な活動の分野にも選考対象を広げている。また対象とする分野については、技術分野、産業分野、学術分野、社会分野の中から人選している。

◇宮川秀之氏 カロッツェリアを日本に紹介 自動車デザインを飛躍させた功労者

モーターサイクルで世界一周の折、イタリアン・デザインに魅了され、イタルデザイン設立に参画、日本車の先導的デザインへの架け橋として活躍し、自動車文化に多大な貢献を果たした。

宮川氏は殿堂入りに際し、「嬉しい限りだ。あまりにも嬉しいので僕の大家族を引き連れて東京に来た(宮川氏はイタリア在住)。オートバイに乗ることも少なくなったが、これからも益々元気を出して日本の自動車カルチャーの発展を手伝っていきたい」と喜びを語った。

◇高島鎮雄氏 日本の自動車文化の発展に貢献 自動車史考証を先導

自動車雑誌編集、そして世界の名車の歴史本の執筆により、若い世代に自動車の楽しさを伝え、若者が自動車エンジニアやデザイナーを目指す、良き動機付けに繋げた。

「私は自動車に関わる企業の経営に携わったこともなく、自動車を設計、生産、販売、整備したりする仕事に従事したこともない。いちジャーナリスト、あるいはいちライターとして鉛筆一本で原稿用紙のマス目を埋めて、自動車知識の普及、特に若い世代の人達に自動車の楽しさを伝えることに努めてきた」と高島氏。

実は高島氏は当初、この殿堂入りを辞退していたという。「過去に殿堂入りされた多くの先輩に比べると私の存在、あるいは功績は非常に小さいものと辞退した。しかし、私がここで辞退すると私に続く若い世代のジャーナリストやライターの殿堂入りする道が閉ざされてしまうことから、是非受けて欲しいと口説かれ受託した」と述べ、「今回は私の名前で殿堂入りをさせてもらったが、その栄誉は同世代、あるいは我々に続く全てのジャーナリストやライターに対するものであると考えている」とコメントした。

もうひとつ、今回の場で明かされたエピソードがあった。それは、宮川氏と郷里の群馬県前橋市で幼稚園から高校まで同窓生だったことだ。「中学の頃に二人とも自動車好きになり、東京の外国車の輸入商社に競って手紙を書き、カタログを送ってもらった。カタログといっても立派な色刷りの本国のカタログではなく、日本で作られたリーフレットのようなものだったが、これが我々の世界の自動車に目を開く案内役をしてくれた」という。そして、「カタログを手に入れると翌朝学校へ持って行って、授業の前に二人で見せ合って、俺の勝ちだという風に競い合った。今にして思えばこれが私達二人が自動車の世界に飛び込む端緒であった」と振り返る。

また、「その頃はまだ終戦直後なので、一家に自転車が1台という時代だ。なので自動車はものすごい高嶺の花だったが、夢と希望の象徴だった。それに比べると今の若い世代は生まれた時から家に自動車があることから、自動車に対する関心があまり高くないので、これを何とかしていかなければならない。それが我々ジャーナリスト、ライターに課せられた大きな役割である」と語った。

◇鈴木孝幸氏 ディーゼルエンジンの先進技術とハイブリッド技術を開拓

日野自動車のディーゼルエンジンの、排出ガスのクリーン化 燃費向上、信頼性・耐久性向上技術を開発すると共に、世界初のディーゼル・電気ハイブリッドバスの実用化など、自動車産業の発展に寄与。

「選考理由の中に、排ガスのクリーン化と燃費向上、信頼性と耐久性の技術の開発、そしてハイブリッドの実用化が評価されており、これは大変私としては嬉しい限りだ」と鈴木氏。しかしこの課題は、「大勢の人達の力を借りて達成したもの。私がその代表としていただいた」という。

その中でも特にハイブリッドは、「大変苦労した。我々がハイブリッドの研究開発を開始したのは1981年。まだハイブリッドという名前があまり知られておらず、前例のないような時代で、誰が見てもこんなものは製品になるのか懐疑的だった」と振り返る。このシステムのキーは、「超薄型偏平のモーターの開発、それから車載可能な高性能のインバーターの開発がポイントだった」と鈴木氏。

これらについては、「東芝、澤藤電機にお世話になった。特に汎用のインバーターは非常に大きいもので、2トン車だと荷台がいっぱいになるぐらいの大きさ。しかし、これで基礎試験をやるとイメージをしているハイブリッドの走りが出来たので、これを何とか小さいものにしたいと、各社と色々論議し、繰り返し繰り返し試作を行なった。6年がかりでとても小さくなり車載が可能になった」という。

クルマが出来上がり、「南は九州から北は北海道まで、暑い時寒い時、北海道の雪の中を1ヶ月、山坂を走り回った。南の九州では高速道路、特殊な坂道等々を走り、3年ぐらいかかり1991年に実用化の目処がついた」と述べる。そして大型路線バスのハイブリッド車が完成し、東京、大阪等の大都市でディーゼル車と同じダイヤで営業運行を開始。「このハイブリッドは現在、トラック、バスにラインナップし、世界にも輸出をして2万台を超える台数に達している」と語った。

そして、「今後はこれまで培ってきた知識や経験を、若い技術者の育成に少しでも力になることが出来ればいい。色々お世話になった社会にも少しでも恩返しできたら嬉しい」とした。

◇木村治夫氏 忠実なる真のレストアを貫き日本のレストア活動をけん引

社会と共に歩んで来た自動車の史実に基づく忠実なレストアを貫き、日本のレストア活動をけん引し、後世への自動車文化の伝承に多大なる貢献を果たした。

昭和34年、名古屋を襲った伊勢湾台風で、多くのクルマが水に浸かった。当時戦前のクルマは20年以上経過していたので、ほとんどが放置されていたという。「特に戦前のダットサンなどがボロボロで置いてあった。それを何とかしたいと思い、ナンバープレートを頼りに所有者を調べ、3、4台譲り受けた」とそのきっかけを話す。

「当時、父の会社で仕事をしており、あまり無理をしてはいけないと随分いわれたが、好きなので仕事終わってから会社の片隅で夜コツコツとレストアとはいえないほどお粗末な修理をした」と懐かしむ。エンジンは海水に浸かり、数ヶ月後に分解してもエンジンは使えないほど錆びていたので東京で手に入れ、「自分なりに整備、修理して搭載し動くようにした。色は吹き付けなどではなく、刷毛で塗ったお粗末なものだった。しかし、何とか動くようになってそれがきっかけでレストアをしようと今日に至った」という。

これまで1935年の『つくば号』や『オートモ号』、トヨペット『クラウン』などが代表的なレストア車で、現在は「1935年のダットサンをレストア中で、来年早々には完成する予定だ。今後もレストアを可能な限り頑張って続けていきたい」とした。

《内田俊一》

内田俊一

内田俊一(うちだしゅんいち) 日本自動車ジャーナリスト協会(AJAJ)会員 1966年生まれ。自動車関連のマーケティングリサーチ会社に18年間在籍し、先行開発、ユーザー調査に携わる。その後独立し、これまでの経験を活かしデザイン、マーケティング等の視点を中心に執筆。また、クラシックカーの分野も得意としている。保有車は車検切れのルノー25バカラとルノー10。

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