◆18日に駅舎の清掃をするはずが…


浦臼町の建設会社で役員を務める傍ら、「新十津川駅を勝手に守る会」の会長として札沼線新十津川駅の活性化に尽力していた三浦光喜さん(61歳)も、同じことを考えていたひとりだった。
三浦さんは翌4月16日、感染リスクが高いと感じたものの「今乗らないと一生後悔する」という思いから、1本しかない新十津川発石狩当別行きに飛び乗ったという。定期券の区間である浦臼まで乗車し、1日の務めを終えたところで、JR北海道からの連絡を受けた新十津川役場から「明日で廃線になるかもしれない」という衝撃的な情報が入った。緊急事態宣言の全国への発出により、最終運行日の再度の繰上げを余儀なくされたのだった。
以前、三浦さんと話をしていた時に、2019年4月に廃止された石勝線夕張支線が話題となり、「新十津川駅は夕張駅ほど広くはないから、これだけの人が来たらとても対応できないのでは?」と心配されていたが、これが別の形で的中してしまった。
もし夕張並に人が押し寄せれば、クラスターの発生リスクが高まるのは誰の目にも明らかだ。しかも、緊急事態宣言の対象地域から非対象地域へ移動する「コロナ疎開」なるものが横行しつつあったから、札沼線のラストランをきっかけにした二次感染のリスクも否定できない。
国から支援を受けているJR北海道としても、緊急事態宣言による要請を無視してまで、当初の予定どおりにラストランを行なうリスクを負えないのは自明だ。だからこそ、最終運行日をその前日に発表するという前代未聞の措置に至ったのだろうが、一方で、三浦さんをはじめ「新十津川駅を勝手に守る会」のメンバーや町民たちは複雑な思いにかられたという。
会では、4月18日に会員だけで新十津川駅の清掃を行なうことを考えていたが、その前日が最終運行の「Xデー」になることに愕然とした。「この時ほど、安倍首相を恨んだことはない」。三浦さんはそう言い、個人的な感情を吐露した。
◆政治や戦争に翻弄、戦前には不要不急路線に
最盛期の札沼線は、桑園駅(札幌市中央区)と石狩沼田駅(沼田町)を結ぶ111.4kmの路線だった。石狩太美から北は石狩川の右岸に沿って走るが、鉄道がなかった時代の右岸地域は、道路事情がきわめて悪く、物資を馬で運ぶことを余儀なくされていた。そのため、交通手段は石狩川の渡船が頼りで、石炭や森林資源、農産物の輸送にも支障が出る有様だった。
そこで明治時代末期からは地域住民が国に対して鉄道路線敷設の請願を行なってきたが、なかなか採択されず、一時は私鉄として敷設する動きもあったものの、これも資金面の問題で立ち消えに。大正時代に入ると、新十津川村(現在の新十津川町)出身の議員が帝国議会衆議院の予算委員長に就任し、1923年、ほとんど強引な形で敷設を決定するが、翌年には政権交替により再び頓挫。雨竜村(現在の雨竜町)在住の有力な侯爵の支援もあり、昭和に入った1927年10月にようやく北の石狩沼田方から着工した。南の桑園方からは1929年7月に着工し、南北がつながるまでは、それぞれ「札沼北線」「札沼南線」と呼ばれた。

このようなドタバタの末に、札沼線桑園~石狩沼田間は1935年10月に全通したが、不幸はそう時間を置かずに訪れる。1941年12月に太平洋戦争が勃発し、次第に戦時体制が進むと、武器製造や重要な鉄道への鉄材拠出を目的に、勅令(改正陸運統制令)や金属類回収令により、利用率が低い鉄道路線を不要不急路線とし、休止の上で線路を撤去するという措置が採られたのだ。

戦後、レールを剥がされた不要不急路線はそのまま廃止されたものもあったが、札沼線の場合は沿線の復元運動が功を奏し、1956年11月までに全線が鉄道路線として復元されている。

◆「赤字83線」で新十津川駅が終着駅に
現在61歳の三浦さんは、物心が付いた時には札沼線沿線の雨竜町追分に住んでいたという。1973年4月には新十津川町に移り住んだということだが、父親の転勤の都合で江別市に住んでいたおよそ5年間を除いて、今日まで半世紀の間、札沼線の沿線に住み続けている。親類縁者も雨竜や浦臼、月形といった沿線に在住しており、札沼線との縁は深い。

1日1回、貨物列車がやって来て、忙しそうに肥料や米などを積み卸す風景を日常的に見ていた三浦少年は、貨車を見事に操って組成する職人技を毎日のように見ながら「国鉄マンは凜々しく、憧れの存在」に映り、「いつかは駅長になる」ことを夢見ていたという。


これにより、札沼線は桑園~新十津川間76.5kmの路線となり、1987年4月にはJR北海道へ承継されることになる。
ちなみに、国鉄末期の1980年に制定された「日本国有鉄道経営再建促進特別措置法」(いわゆる国鉄再建法)に基づき、1日あたりの輸送密度が4000人未満となっている路線が特定地方交通線に定められ、1~3次に分けて廃止対象とされたが、札沼線は、宅地化が進み利用者が伸びていた桑園~石狩当別間が功を奏し、廃止対象から外れている。

加えて1981年には当別町に東日本学園大学(現・北海道医療大学)が設置され、請願により石狩当別~石狩金沢間に仮乗降場の「大学前」駅が新設された。これが現在の北海道医療大学駅だが、三浦さんによると、このことが札沼線の運行体系を浦臼を拠点としたものから、石狩当別を拠点としたものに変えることにつながり、現在の北海道医療大学以北が衰退する一因になったのではないかと言う。

◆ワースト1でも人を集めよう…新十津川の取組
JR北海道が発足した1987年度の札沼線は、北海道医療大学~新十津川間の輸送密度が341人だったが、28年後の2015年度は約7分の1の79人まで落ち込んでいた。これは、現在廃止されている石勝線新夕張~夕張間や留萌本線留萌~増毛間よりも少ない、ワースト1の数だった。
数字が下がるごとに駅の荒廃が進み、新十津川駅の内部はいたずらや落書きだらけとなり、ホームの草は伸び放題。人糞までも見つかる始末だったということで、三浦さんは2002年頃から草刈り機を肩に、ホームの草を刈り始めたという。その後、2004年に三浦さんが駅舎清掃を提案したところ、町の職員や町民有志が快く賛同し2005年から着手したが、普段は駅へ行ったことがない人が多かっただけに、あまりの荒廃ぶりに驚きを隠せなかったという。
このとき、駅舎内の壁を塗り替えるため、JR北海道にペンキの提供を打診したところ、気前よく応じてくれたという。これについて三浦さんは「今ではそんな余裕もないだろう」と語る。
2006年頃からは次第に新十津川駅周辺で有志による整備や活性化の輪が広がり、2015年頃からは、埼玉県から来た地域おこし隊の第1号メンバーである高野智樹さんが、駅に出向いて数えた乗客数を毎日SNSに投稿するなど、新十津川駅が全国から注目を集めるきっかけをつくった。


それでも2017年には、三浦さんが「売れない」と言われつつ、自腹でJR北海道から1000枚の硬券入場券(17万円相当)を買い上げ、2日間で完売。その後も追加販売でトータル3000枚を売り上げ気を吐いた。
こうした動きに、新十津川町などの沿線自治体も重い腰を上げるようになり、「終着駅到達証明書」の発行や沿線町長がガイドを務めるツアーが行なわれるようになった。

◆歴史に残る?かつてない国難の下での終了
2017年以後、当別、月形、浦臼、新十津川の沿線4町では、鉄道の存続をめぐって意見交換会が開かれたが、夕張支線とは異なり、自治体が分かれているため、各町の間には微妙に温度差があった。とくに月形町は月形高校への通学生の足が確保できなくなるという懸念もあり、鉄道存続を願う意見も強かったという。
しかし、JR北海道が代替バスの運行や沿線のまちづくりに協力する姿勢を示したことなどから、2018年12月までには全町が廃止に合意。JR北海道から正式に廃止が表明された。
これを受けて、新十津川をはじめとした沿線4町では廃止直前のさよならイベントを計画し、三浦さんのチームも「最後のおもてなし」に向けて準備がヒートアップしていたが、思わぬところで水を差してきたのが、中国の武漢を発生源とする新型コロナウイルスの猛威だった。

三浦さんも「日本政府の忖度や後手後手の対策によって感染拡大が収まらない状態になり、それが札沼線にも飛び火して、運行最終日の前倒しを余儀なくされた」と指摘。そのことを示すかのように、今回、わずか2日間で最終運行日の変更が2度発表されるという、前代未聞の珍事が起こった。
日本に旅客営業を行なう鉄道が開業してから150年近くになるが、その間には、私鉄も含めて、数多の路線が廃止された。今回の札沼線のように、廃止日まで数日を残して運行を休止する例は、自然災害で運休となりそのまま廃止となったJR東日本の岩泉線など、多くの例があるが、新型感染症が引き金となった例としては、札沼線が初となった。

戦争以外で、国難とも言える異常な事態の下で事実上の歴史を終えたという点で、今回のケースは後世に語り継がれるとも言えるが、かつては政治や戦争に翻弄された路線らしく、最後の最後まで大きな動きに巻き込まれて消えてしまうことに、因縁めいたものを感じてしまう。
